vol.05 特集テーマ 機能価値から感性価値へ

人間の感性研究から、モビリティの未来を考える

前編では、車内空間に新たな快適性とデザインを創出する3次元立体編み物フュージョン®をご紹介しましたが、後編では感性研究の最前線、「商品科学研究所」の中へ入ります。旭化成の商品科学研究所、略して「商科研」は、繊維が人にもたらす快適や健康を科学的に捉えながら、心ときめく新素材の開発を目指すユニークな研究所です。直接肌に触れる繊細なインナーやアンダーウェアの素材開発で培った技術を活かして、近年は自動車内装材の開発にも力を入れています。中でも快適ソリューションのベースとなる「温熱」研究に注目しながら、科学的アプローチの方法やビジョンを所長の出口潤子と、自動車内装材開発プロジェクト長の小松隆志に聞きます。
*前編の記事へ

▲旭化成株式会社 パフォーマンスプロダクツ事業本部 繊維技術開発総部 商品科学研究所 所長 出口潤子(右)、同 繊維技術開発部 自動車内装材開発プロジェクト プロジェクト長 小松隆志(左)。滋賀県守山市にある商品科学研究所にて

 

快適性のベースにある“温熱”研究の知見を、カーシートに

出口「商品科学研究所では、旭化成のさまざまな繊維の新素材を研究開発しています。人の快適や健康に最も関係することとして“Agreeable”温熱的な清涼性と保温性、“Active”運動時の機能性、“Adaptive”肌への優しさと適合性という3つのA=“A-cubic®”を基軸にしながら、今はそこに “感性”の視点をプラスして総合的に快適性を追求していこうと考えています。

私たちの開発の基盤には、まず衣服があります。冬は寒いですし夏は暑い、そこをいかに衣服で快適に過ごすかというのは永遠のテーマだと思っています。“温熱”つまり温度と湿度は快・不快のベースになるもので、ある程度温熱的に中立のところに持っていかないと人は不快に感じてしまいます。どんな環境の時にどんなふうに反応が起こるのか、例えば体温が上がってきてあるレベルになったら発汗し始めるといった生理学的なところを理解しながら人の衣服の最適な設計を考えていこうとしています」

▲所長の出口潤子は守山の商品科学研究所の前身から研究ひと筋。今も現場で快適性を軸に新商品開発を進める取り組みに携わっている。

 

小松「2021年に生産開始から90周年を迎えた“ベンベルグ®”は温熱研究に適した素材であり、それを使用した生地が夏に涼しいという観点でも優れていると思います。ベンベルグ®は、綿実油を作る時の副産物であるコットンリンター(綿の種の周りの産毛)を原料とした繊維で、コットンよりも吸湿性が高いです。ただ、水分を吸ったままの生地を着ていると不快に感じる人が多いので、吸った水分は外に逃がしたいですよね。ポリエステルのような化学繊維を合わせると水を逃がしやすくなります。ポリエステルは、例えば断面がW型になるような糸をつくって何本も撚り合せると糸の間に隙間ができて、速乾機能に優れた素材ができます。ベンベルグ®にそのポリエステルを合わせることで滑らかで薄くて、なおかつ汗を吸収して乾きやすい生地になります」

▲ベンベルグ®の原料は、コットンの種のまわりにある産毛(コットンリンター)

 

出口「私たちは肌に近いところの素材開発が得意でインナーやスポーツウエアなど肌に直接触れる商品の開発が多いのですが、カーシートも蒸れたり暑苦しく感じたりすることがあるので、衣服で温熱快適性を追求した技術を応用すればカーシートの素材開発に活かせるのではないかと、今重点的に取り組んでいます。特に年々夏が暑くなっているので、暑さ対策や熱中症対策は急務ではないかと思っています」

小松「社内グループ(自動車内装材開発プロジェクト)では温熱に関する研究の一つとして風の流れやすさ、通気性に着目しています。カーシートでは、熱や汗が出た時の湿度が逃げていきやすいかどうかに注目します。(前編で特集した)フュージョン®のようなスペイサーファブリックと呼ばれる立体編み物は、クッション性があって通気性もとても良い素材です。改良を進め、自動車内装材向けに開発を進めています」

▲前編で特集した3次元立体編み物「フュージョン®」を使用したカーシートの研究開発も行っている。

 

“温熱”コントロール室の中へ。心のときめきも数値化される?

出口「それではここから少し測定の舞台裏をご紹介しましょう。この部屋は温度と湿度を条件に応じて管理できる部屋です。下はマイナス20度、上は50度くらいまで設定できて、今は温度が26度、湿度60%くらいになっていますね。ここでは温度や湿度を変えたとき、人と、生地の物性にどのような影響が出るのかを測定しています。


衣服では、皮膚まわりや皮膚と衣服の間の温度・湿度が適度であれば、ほぼ温熱的には快適な状態だということがわかります。暑い環境で衣服内が蒸れて着ている人の不快感が増してきているなというときに、心拍や脳波はどうなっているかを測定して捉えることができます。実際の数値だけでなく、人の感覚も取っています。私たちの実験では感覚として感じる前に指標として心拍や脳波に変化が表れる傾向がみられています」

▲天井からの照明は太陽光を想定。温度と湿度を条件に応じて管理できる部屋を二部屋設けており、行き来できる。例えば、一部屋を車内環境に、もう一方を真夏の外部環境に設定し、移動したときにどのように感じるかも調べられる。

 

小松「心拍は刺激に対して比較的緩やかに、でも他の指標に比べると反応が表れやすいです。心拍を丁寧に調べると、けっこう快・不快が分かるのです。緊張やストレス、運動などによって心拍数は上がり、リラックスすれば反対に心拍数は下がります。ただ快適以外の状態であっても人は同じ心拍を打つことがあるので、『このくらいの心拍数ならば人は快適と感じている』と言うことはできません。単純に見えて奥が深いです。

▲商科研では、長年の研究から心拍のバラツキと変化量に着目して、独自の手法で快適性の数値化を実現。さまざまな外的因子に対して、感じていることを読み取って素材の開発に活かそうとしている。

 

例えば、表面が涼しいと感じる開発品のカーシートと、その比較対象になるカーシートを使って心拍を比較します。蒸れたり暑くならなければ体に負担が掛からず、心拍は増加しません。ただし、感覚として無自覚の場合や心拍変化が微妙なこともあるので、脳波もセンサーで捉えています」

 

人間をもっと見て、感性をもっと測って、画期的な製品を

出口「こちらの部屋では、繊維の肌への優しさなどを研究しています。衣服を着たときに肌にダメージがないか、肌の弾力やpH(酸性度)、角質水分を測定することで、肌の状態を見ながら全体を合わせてどういうことが起こっているか、どんな状態になっているかを明確化していきます。“触り心地”というのはその人の肌の柔らかさや感じ方、好みによっても変わるので、官能と測定値とを掛け合わせて難しい課題にチャレンジしているという感じですね。それを紐解くには物性的な研究も欠かせなくて、顕微鏡で布地の表面観察をしたり、さまざまな装置を使って伸縮性や通気性の測定なども行います。さらに実際に着てみたとき本人はどのように感じるか、あるいは無自覚でも気持ちよくリラックスできているのかなどを心拍や脳波で捉えていきます。

▲体感(感じ方)は季節でも変わる。冬は夏に比べて低い気温でも暖かいと感じたり、被験者のその日の体調、昨日の過ごし方でも変わったり、個人差もある。様々なことが影響するため再現性が非常に難しいものでもある。写真の機器は、肌の水分量を計測する角質水分計。

 

以前、物性としての機能面を追求していたときも快適・不快についてはずっと研究してきたのですが、当時は直接衣服の性能と結び付けていました。最近は人間をもっと測っていこう、感性自体も測っていこう、となっています。まだ道半ばではありますが、調べるほどもっと深く勉強することが必要だと感じますね」

小松「今は快適性など五感への関心が高まってきて、開発手法も進化してきました。私たちの五感の数値化の手法だけでなく、シミュレーション・CAE、DXやMIなどの活用によって、感性研究からの製品開発を進めています。特に、心拍や脳波といった人の“無意識”や“潜在意識”の領域をCAEのバーチャル世界に反映させて素材開発を行えば、これまでにない不連続な、画期的な製品が出来るのではと感じています」

 

個別の“感性価値”をカスタマイズした車づくりへ

小松「衣類やファッションは古くから自分の個性を示すアイテムとして使われてきましたが、それは身にまとうという点で自分への帰属意識が高いためだと思います。近年は車にもこのファッションと同様な意識の変化を感じています。車に対しても気持ち良さや自分好みという感性価値が重要視されるようになっていますね。特に今思うのは、これまでの7割8割くらいの大多数の人に受け入れられるような車作りから、今後はターゲットを絞った車作りが求められるのではないかということです。その車を気に入った大多数よりも、むしろ気に入らなかった人を集めて、その人たちはどんなものが好きなのか、感性や価値を追いかけていかないとものづくりは厳しくなっていくのではないでしょうか。

▲小松隆志は、原料開発から製品開発、その用途開発へと移ってきた。「算数から美術に変わったくらい異なるけれど、顕微鏡では見えない世界を探求する感性研究は難しく面白い」という。

 

そうなるとモノ作りにおいて、快適性や感性といった“人の感覚の見える化”の重要度が増してくると感じています。例えば温熱なら、今までは『みんなが気に入る温熱はこのあたりだろう』と物づくりをしてきたけれど、そこから外れる人たちにもアプローチをする。そのためには私たちの感性の評価もしっかり数値化・見える化をして、感性価値での物づくりが求められると思います。例えばカーシートだったらスイッチ一つで好みの状態に変わるとか、色が変わるとか、今はまだ夢物語かもしれませんが、できるようになるかもしれませんよね。みんなの意見をまとめて作りましたというものより、とんがったものが主役になっていくのではないかという気がします。
車業界は100年に一度の大変革期と言われ、車自体の姿も変わっていくと思いますが、私たちの生み出す製品も大変革を起こしたいですね。個人的には、車はやっぱり気持ちよくあって欲しい。気持ちよく風を切っていたいです。初めて車を運転したときに感じた手足が伸びたようなあの感覚を、ずっと覚えています」

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