vol.04 特集テーマ 音マネジメント

電気自動車の失われた歴史 – それが輸送の未来にもたらす意味

汚染、事故、渋滞に見舞われるいつの時代にも、次世代の輸送のソリューションは明白なもののように見えるが、同じ問題が何度もぶり返している

1890年代、西欧諸国の大都市は増大する問題に直面していました。数千年の間、馬車が使用されてきたため、馬車のない生活は考えられませんでした。しかし、19世紀の間にこのような車両の数が増えるにつれて、人口が密集した都市で馬を使用することの欠点がこれまで以上に明らかになってきました。

特に、路上の馬糞の堆積とそれに伴う悪臭は、見過ごすことができませんでした。1890年代までに、約30万頭の馬がロンドンの路上で、15万頭以上がニューヨーク市の路上で働いていました。これらの馬は1日に平均10kgの糞と、約1リットルの尿を排泄しました。馬小屋と路上から数千トンの排泄物を収集し除去することがますます困難になることは明らかでした。

問題は数十年の間に増大してきました。1857年にニューヨーク市の新聞編集者は「ごく一部の幹線道路を除き、すべての道路がひどい悪臭の不快な汚物で満たされ、場所によってはほとんど車両が通り抜けられないほどの高さまでこのような汚物が積み上げられている」と述べています。同様に空気もひどい悪臭で満たされ、雨が降るたびに、大量の馬糞により、道路はぬかるんだ汚水溜めへと変貌しました。1890年代のロンドンでの目撃証言によると、この「泥(mud)」(上品ぶったビクトリアンの間で使われていた婉曲表現)は、豆のスープのような粘性を持った液体にもなり、しばしば、市の幹線道路の1つであるストランド通りを覆いました。通過車両は、この液体をズボンやスカートにひっかけるだけでなく、歩道も完全に越えて、近くの家や店先にまき散らして汚していました。道路から収集された馬糞は、主要な町や都市の周囲に点在するごみ集積場に積み上げられました。馬小屋の横にも山のように馬糞が積み上げられ、ハエにとって格好のたまり場となっていました。

このすべてが公共衛生に害を及ぼしました。1894年に、New York Timesは、ニューヨーク市衛生局の統計学者が「馬小屋の50フィート(15.24 m)圏内にある住居や学校では、より遠隔な場所に比べ」感染症に罹患するレベルが高いことを発見したと報じました。19世紀末前後の計算によると、「ごみから舞い上がる病気」で年間2万人のニューヨーカーが死亡し、馬に依存することで健康が危険に晒される明らかな証拠となりました。さらに悪いことに、馬は頻繁に過剰労働させられ、急死すると、遺体は切断して取り除く前に数日間路上に腐りかけたまま放置されていたため、さらなる健康被害を引き起こしていました。1880年代までに、ニューヨーク市の道路では、毎年15,000頭の馬の死骸が除去されていました。

逆説的に、蒸気機関車の登場と、1830年代から始まった都市間を結ぶ鉄道の建設が、さらに問題を悪化させました。都市間でのより速くより効率的な輸送は、都市内での人と商品の迅速な輸送への需要を高め、より多くの馬車が必要となりました。「私たちの馬への依存度は、蒸気への依存度とほぼ同じ比率で増えていきました」と、ある観測筋が1872年に記しています。その結果、馬の数が増えるにつれて馬糞の量も増え、渋滞は悪化の一途を辿りました。1870年に、ある観測筋が、マンハッタンのブロードウェイは1日に何回か「ほぼ通行不能」になり、交通が行き交っているときは金属製の馬蹄と鉄製の縁の車輪がでこぼこの路面でガチャガチャと音を出して耳をつんざくような状態となり、病院や一部の個人宅の外には騒音を削減するためにわらがまき散らされていることがあると記述しています。

汚染、渋滞、騒音は、依存関係が深まったことを示す最も明らかな兆候にすぎません。1872年10月の北米での馬インフルエンザの大流行によって、すべての馬とが数週間活動不能となり、社会が動物のパワーに依存していることをはっきりと思い出させました。New York Timesは、道路から「トラック、荷馬車、急送荷馬車、一般車両が消えた」と記しました。「現在の伝染病は、馬の労力を突然失うと工業も商業も完全に機能しなくなるという驚愕的な事実に私たちを直面させた」と、Nationは述べています。新聞では、馬と馬小屋は優れた社会機構の両輪であり、その停止は、あらゆる階級と状況の人々への損害と、商業、農業、貿易、社会生活への損害を意味している」と、見解が示されました。

それでも大西洋の両側では、社会は引き続き馬への依存度がさらに高まりました。1870年から1900年の間に、米国の都市の馬の数は4倍に増加しましたが、人口は2倍増しただけでした。19世紀末までに、英国では10人あたり1頭の馬が、米国では4人あたり1頭の馬が存在していました。馬に干し草とオート麦を与えるために広大な面積の農地が必要となり、人の食物を育てるために使用できるスペースが削減されました。米国では2000万頭の馬に餌を与えるために総作付面積の1/3が必要でした。一方、英国は350万頭の馬用に、輸入された飼料に長い間依存していました。

馬は絶対不可欠だが、持続不可能だという両面が色濃くなっていきました。新たなテクノロジーを支持するためのソリューションは明白なものに見えました。つまり、馬を排除し、当時は馬のいらない馬車として知られた自走する動力車に置き換えることでした。今日、それらは自動車と呼ばれています。

近年、この変遷は、イノベーションの原動力の証拠として、さらに、一見手に負えない問題へのシンプルな技術的解決策がどのように必要な時にだけ現れるか(たとえば、気候変動を心配する必要がなくなる)という一例として引用されています。ただし、別の視点から、今日手っ取り早い解決策に見えるものが、将来、広範に及ぶ意図しない結果に終わる可能性があるという教訓としてとらえる必要もあります。馬から自動車への切り替えは、思っていたような巧妙で時機を得た技術的なソリューションではありませんでした。自動車は、都市の地理学から石油の地政学まで、さまざまな予期せぬ方法で世界を変え、それらに特有の多くの問題を生み出したからです。

 

当初の自動車への熱烈な興味の大半は、騒音、渋滞、事故を含む馬車に関連する問題を解決するという明るい見通しから生まれたものでした。自動車は、これらの各問題を解決できませんでしたが、何世紀もの間、都市の幹線道路に付きまとっていた汚染、中でも馬糞の排除を含め、その他多くのメリットをもたらしたため容認されました。

しかし、一連の環境問題を排除する一方で、自動車はまったく新しい一連の問題を引き起こしました。自動車が排出する汚染物質は馬糞ほど目に見えて認識できませんが、同様に問題です。これらには、肺の深部に浸透する車両排出ガス中の煤(すす)、呼吸器系に炎症を起こし、数種のがんに関連する揮発性有機化合物、窒素酸化物、一酸化炭素、二酸化硫黄、気候変動の一因となる温室効果ガス(主に二酸化炭素)などの粒状物質が含まれます。自動車、トラック、バスが合計で、地球上の二酸化炭素排出量の約17%を排出しています。20世紀の間、世界の大半が中東からの石油に依存するようになってきたため、ガソリンやディーゼルなどの化石燃料への依存も広範に及ぶ地政学的な予期せぬ結果をもたらしています。

自動車時代の幕開けには、このいずれも予測できませんでした。もしくは、予測できたのでしょうか?一部の人々は、再生不可能な石油燃料を使用した自動車への動力供給の持続可能性や、このような燃料を入手することの信頼性について懸念を表明していました。今日、再生可能なエネルギーを使用して充電された電気自動車が、これらの懸念を解消するための論理的な方法とみなされています。しかし、電気自動車の長所に関する議論は、結局、自動車そのものと同じぐらい古い内容となっています。

1897年に米国で最もよく売れた車は、Pope Manufacturing Company社のColumbia Motor Carriageという電気自動車でした。電気モデルは、蒸気およびガソリン駆動モデルを上回りました。1900年までは、蒸気車両の販売数がわずかながらリードしていました。その年は、1,681台の蒸気車両、1,575台の電気車両、936台のガソリン駆動車が販売されました。1903年にOlds Motor Works社のCurved Dash Oldsmobileが販売開始されたときに、初めてガソリン駆動車がリードを奪いました。

現代の視点から、電気自動車に関して物事が異なる方法でどのようにうまくいったかを示す最も顕著な例は、おそらく、1890年代後半に短期間活躍した電気タクシー、Electrobatの事例でしょう。Electrobatは1894年にフィラデルフィアで、電気自動車の熱心な支持者であった2人の科学者であり発明家のPedro SalomとHenry Morrisによって開発されました。1895年のスピーチで、Salomは次のようにガソリン車を嘲笑しています。「無数のチェーン、ベルト、滑車、パイプ、バルブ、栓などを装備した、ガソリン車の驚くほど複雑な駆動装置…非常に多くのものが故障するだろうし、それらのいずれかが常に故障すると考えるのは当然のことですよね?」

2人は初期設計を徐々に改良し、最終的に、前方に乗客用の広い座席があり、後方の高い座席の運転者によって制御可能な馬車に似た車両を製造しました。1897年にMorrisとSalomはマンハッタンで12台の車両を使ったタクシーサービスを立ち上げ、営業の初月には1,000人の乗客にサービスを提供しました。しかし、タクシーは走行距離が制限され、バッテリーの再充電には何時間もかかりました。そこで、MorrisとSalomは、別の会社、Electric Battery Companyと合併しました。同社のエンジニアが、空のバッテリーをフル充電されたバッテリーと数秒で交換できる、1684ブロードウェイにあるステーションを拠点とする巧みなバッテリー交換システムを考案したことで、Electrobatは終日稼働できるようになりました。

1899年にこの有望なビジネスは、電気路面電車に多額の投資をしていたニューヨークの政治家兼投資家のWilliam Whitneyの関心を惹きました。彼は、都会の輸送の独占企業を設立し、世界中の主要都市で稼働する電気タクシー群がより清潔でより静かな馬車の代替物となることを思い描いていました。都会に住む人々は、まだ大半の人々にとって高額な自動車を購入する代わりに、電気タクシーや路面電車を利用してあちこち移動していました。しかし、この構想の実現は、Electrobatを遥かに大規模に製造することを意味していました。そのため、Whitneyと彼の友人は、コロンビアで最も売れている電気自動車のメーカー、Pope社と提携しました。彼らは、Electric Vehicle Company(EVC)という新しいベンチャー企業を設立し、大望の拡張計画に乗り出しました。EVCは数千台の電気タクシーを製造するために資金を集め、ボストン、シカゴ、ニュージャージー、ニューポートにオフィスを開設しました。1899年には、短期間ながら、米国最大の自動車メーカーとなりました。

しかし、ニューヨーク以外のタクシー事業はうまくいかず、収益は上がりませんでした。再編成と資本再構成を繰り返したことで、EVCは入念な金融詐欺だという非難が高まりました。ガソリン駆動車を強力に支持していた業界誌Horseless Ageは、EVCを独占主義の志望者として攻撃し、電気自動車は失敗する運命だと述べました。EVCが不正に融資を受けたというニュースが明らかになると、同社の株価は$30から$0.75に急落し、同社は各地のオフィスの閉鎖に追い込まれました。Horseless Ageはこの頓挫を楽しみ、電気自動車による「だまされやすい世界」が続かなかったことに喝采を送りました。

その後の数年で、より多くの人々が自家用車を購入するようになると、電気自動車は女性の車であるという新しい意味合いを帯びるようになりました。この関連付けが生じたのは、電気自動車が短距離の特定地域の移動に適しており、始動のための手回しハンドルや運転中のギアシフトが不要で、シンプルな設計のおかげで極めて信頼性が高かったからです。1910年のBabcock Electric車の広告は、「Babcock Electricを運転する彼女には何の不安もない」というものでした。つまり、ガソリン車の運転や維持の複雑さに対応できない女性は、代わりに電気自動車を買うべきだという意味でした。これに対して男性の方がメカに強いことが前提とされ、男性にとってかなり複雑で信頼性が低いことは、性能と走行距離に優れた強力で男らしいガソリン車に対して支払う価値のある価格でした。

Detroit ElectricとWaverley Electricの2社のメーカーが、1912年に、女性を対象として完全に再設計されたと言われるモデルの発売を開始しました。電気自動車ながら、後部座席で操作し、後ろ向きの前座席があり、ドライバーは同乗者と対面することができましたが、そのため道路が見づらくなっていました。操縦用に、ハンドルではなく、旧式の操作レバーが装備され、力強さは不要でしたが、精度が低く、より危険でした。

Henry Fordは、妻のClaraのために自社のModel TではなくDetroit Electricを購入しました。男性の中には、電気自動車の限られた走行距離によって、運転者に与えられる自主性が厳しく制限される点を好んでいた者もいました。

ごく少数の運転者、たとえば、1914年のロサンゼルスでは運転者の15%、トゥーソンでは5%を占める女性に重点を置くことで、電気自動車のメーカーは、より広い市場のガソリン駆動車とは競合できないことを暗に認めていました。

その年、Henry Fordは、Thomas Edisonと協力して低コストの電気自動車を開発中だといううわさを事実と認めました。「今までのところ、問題は再充電せずに長距離を駆動する軽量のストレージバッテリーを開発することです」と、彼はNew York Timesに述べ、電気自動車の主要な弱点を明確に指摘しました。しかし、Edisonは、電気自動車への給電に使用されていた重くてかさばる鉛酸バッテリーに代わるものを開発しようとしては失敗していたため、この自動車の開発は何度も遅れました。最終的に、プロジェクト全体がひそかに中止されました。

 

20世紀初頭の電気自動車の失敗と、推進力の優勢な形態としての内燃エンジンの登場は、鉛酸バッテリーより、単位質量あたり遥かに多くのエネルギーを提供できる液体燃料に大きく関係していました。しかし、その説明は純粋に技術的なものではなく、心理的な要素もあります。自家用車の購入者は、今と同様に、電気自動車のバッテリーの走行距離による制限や、再充電できるかどうかの不確かさを感じたくなかったのです。

歴史学者Gijs Momの言葉を借りれば、この時期の自家用車は、主に、所有者に自由を与えてくれる「冒険マシン」とみなされていました。電気自動車は、ガソリン駆動車に比べて与えられる自由が少なかったのです。1903年、都会に住む自動車愛好家の1人は、「車を所有すると、さらに遠くへ行きたいという欲求を持つようになる」と書いています。電気自動車の販売数は1910年代初めがピークでした。内燃エンジンの信頼性が高まると、電気自動車は圧倒されていきました。

しかし、20世紀に車の所有が劇的に拡大すると、石油への依存によってその他のコストも生じてきました。1960年代までに、米国製の車は、欧州製や日本製の車に比べ、平均して0.75トン重く、そのV8エンジンの排気量は他の国々で最も一般的な4気筒エンジンの2倍以上でした。結果として、米国製の車はより多くの燃料を使用しました。その燃料の増加分は、輸入した石油で賄われました。1973年までに、(ほとんどが中東からの)輸入品が米国の供給量の27%を占めていました。その年の12月に、OPEC(石油輸出国機構)の中東加盟国は、ヨムキプール戦争(第四次中東戦争)で米国がイスラエルを支援したことに抗議して、米国への石油の輸出を中断しました。石油の価格は急騰し、供給が突然削減された結果、ガソリン価格が上昇し、配給制が導入され、ガソリンスタンドには長い待ち行列ができました。米国のドライバーは、ガソリンの供給が当たり前ではないことを初めて実感しました。オイルショックによって、政府は、時速55マイル(88.513 km)の国内速度制限と、米国メーカーの生産ライン全体にわたり、1978年までに18マイル/ガロン(7.653 km/L)、1985年までに27.5マイル/ガロン(11.691 km/L)の平均燃費を達成するように義務付けた燃費基準を導入しました。

しかし、米国の自動車メーカーは自社製品をほとんど変更しませんでした。70年代後半まで、米国製の車の80%が引き続きV8エンジンを搭載していました。1979年、イランでのイスラム革命と翌年のイラン・イラク戦争勃発の結果、第二次オイルショックが起こり、中東からの石油供給が再び中断しました。石油の実生産量はほとんど減少していませんでしたが、価格が急騰し、結果として買い占めが起こりました。この第二次オイルショックによって、小型車の需要が高まりました。

燃費の悪い車の持続可能性への懸念から、電気自動車にはメリットがあると期待されてきました。しかし、電気自動車のテクノロジーは1920年代以降ほとんど進歩していませんでした。最大の問題は相変わらずバッテリーでした。鉛酸バッテリーは依然として重くかさばっており、重量単位あたりそれほど多くのエネルギーを格納できませんでした。1970年代の最も有名な電気自動車、月で米国人宇宙飛行士が運転した4輪月面車は、数時間しか稼働する必要がなかったので、再充電不能なバッテリーで駆動されました。

地球上では、90年代に再充電可能なリチウムイオンバッテリーが登場するまで、電気自動車を商品として復活させようとする試みは実現しませんでした。2003年までに、2人の電気自動車愛好家、Alan CocconiとTom Gageが、6,800個のカムコーダーバッテリーで駆動し、4秒未満で時速0から60マイル(96.561 km)に達し、250マイル(402.336 km)走行するtzeroと呼ばれる電気ロードスターを開発しました。Teslaは、そのテクノロジーを商品化するために設立されました。

リチウムイオンバッテリーは電気自動車への切り替えを可能にしましたが、気候変動に対応するための燃焼駆動車の規制引き締めのため、現在、その潮流は避けられないようです。

汚染問題に対処する一環として導入された自動車は、別の問題、つまり、化石燃料の燃焼による二酸化炭素排出量の一因となってしまいました。

道路車両の電化は気候危機の解消にどの程度役立つのでしょうか?世界的に、(陸、海、空を含む)輸送は、化石燃料の燃焼による二酸化炭素排出量の24%を占めています。道路車両からの排出量は世界の総量の17%を占めています。それらの排出量のうち約1/3がほとんどディーゼル駆動の大型車両(トラックやバスなど)によって、2/3がほとんどガソリン駆動の軽量車両(自動車やバンなど)によって生成されています。

したがって、大型のトラック、船舶、飛行機の化石燃料からの切り替えは課題として残りますが、電気自動車に切り替えることで、全世界の排出量は大きく減少するでしょう。ただし、交通渋滞、交通事故死、1人がお店に移動するために1トンの車両を使用するという固有の非効率性など自動車に関連するその他の問題は解消されません。さらに、自動車の増加は、石油への依存に対する持続可能性や地政学的な結果への懸念につながりましたが、電気自動車でも同様の懸念が生じています。バッテリーを作るために必要なリチウムとコバルトの供給と電気モーターを作るために必要な「レアアース」の供給は、すでに、環境的および地政学的な疑問を引き起こしています。

リチウムはかなり豊富ですが、コバルトは豊富ではありません。その主な供給源はコンゴ民主共和国で、生産量の1/4は手で、シャベルやたいまつを使用して産出されています。鉱山労働者の状況は厳しく、この業界には不正行為や児童労働の使用の疑惑が付きまとっています。コバルトは採掘されると、その大部分は中国で精製されます。中国は世界最大のリチウムイオンバッテリー生産能力シェアを有し、レアアースの生産でも優位に立っています。

地政学的緊張はすでに、コンピューターチップと関連製造ツールの供給に関する中国と欧米諸国間の不和を招いています。電気自動車を作るために必要な鉱物と部品についても同様の対立が起こっていることは容易に想像できます(これは、Teslaがコバルトの供給を確保し、中国の内外で自社のバッテリー工場を運営するために、鉱業の最大手企業Glencoreと提携した理由を説明しています。また、一部の企業がコバルトの代替供給源として深海採鉱を目指している理由も示しています)。

さらに、推進力をある形態から別の形態に切り替えても、そうしなければ物事はそのまま続いていたと想定するのは、理にかなっていないことは歴史的にも明らかです。それは車が馬車に置き換わったときに起きたことではありません。車に動力を供給する推進技術だけでなく、車の所有の考え方全体を再考する時期だと述べる人もいます。

 

都会の輸送の未来は、単一のテクノロジーではなく、スマートフォンテクノロジーによって互いに強く結ばれた多様な輸送システムの混合に基づきます。総じて、ますます細分化する移動に応じて、タクシー配車、マイクロモビリティ、オンデマンドカーレンタルが、所有する必要なく自家用車の利便性を提供する輸送への新たなアプローチをもたらします。テクノロジーアナリストのHorace Dediu氏は、大衆の自動車所有の論拠をゆっくり崩していく、より安く、迅速かつ清潔で、より便利な代替として、これを「車のアンバンドリング」と呼んでいます。

これらの異なる輸送形態を接続し「モーションのインターネット」を形成するスマートフォンの能力は、特定の輸送手段ではなく、スマートフォンが車の真の後継者であることを示しています。モーションのインターネットは、多くの都市に存在する自動車ベースの輸送の単一文化から抜け出す1つの方法を提供します。それを歓迎すべきです。なぜなら、20世紀の体験は、馬から自動車への切り替えで起こったように、ある輸送の単一文化を別のものと置き換えるのは間違いだったことを示唆しているからです。輸送の単一文化は柔軟性に欠け、いとも簡単に予期せぬ結果から抜け出せなくなり、対処がより困難になります。

燃焼エンジンが段階的に廃止されるにつれ、車、汽車、その他の地上輸送の形態が電化され、直接排出は問題ではなくなります(電気輸送はゼロカーボン送電網からの再生可能電力から動力を供給される場合にのみ、真のゼロエミッションとなります)。しかし、輸送システムは、潜在的に問題のある別の形態の出力、すなわちデータを生成します。特に、誰が、誰と、どこに、いつ、どのように行ったかに関する膨大な量のデータを生み出します。

2012年からの評判の悪い(そしてその後削除された)「Rides of Glory」というタイトルのブログ投稿の中で、Uberは、たとえば、一晩限りの関係が最も流行っている都市と日付を特定するために、同社のライダーの行動を分析していました。その投稿は物議を醸し、当時Uberで普及していた抑制のない「テックブロ」文化の兆候とみなされました。しかし、それはもっと広い視点で問題を強調しています。共有された自転車や電動スクーターも課金目的で、誰がどこに、いつ行ったかを追跡しているのです。

モビリティサービスを運営する会社は、このデータを自社で保持したがっています。将来の需要予測に役立ち、新サービスの立ち上げ準備の際にも有用で、ライダーのプロファイリングや宣伝の的を絞るためにも使用できるからです。さまざまな都市が、自転車レーンの準備の調整、低所得地域と高所得地域での使用レベルの比較、車両が使用すべきでない場所で使用されていないかのチェックなどに利用するために、共有された自転車と電動スクーターの場所と使用状況を追跡したがっています。このため、世界中の多くの都市が、Mobility Data Specification(MDS)と呼ばれるシステムを採用してきました。現在、MDSは自転車と電動スクーターのみをカバーしていますが、今後、タクシー配車、カーシェアリング、自動タクシーサービスをカバーするように拡大される可能性があります。

しかし、モビリティサービスプロバイダーとプライバシー権利擁護団体は、MDSによって都市が個人を追跡し、たとえば、警察がデモに参加したり、特定の場所を訪れたりした人々を特定する可能性があることを懸念しています。また、MDSを監視する基盤がデータを安全に格納しない点も心配しています。独裁的な政権がこのようなデータをどのようなことに利用するかは容易に想像できます。

この個人のモビリティデータに関連する全てが、今後論点となる可能性を示唆しています。深遠な懸念事項のように見えますが、自動車時代の幕開けには、同じく目に見えなかった二酸化炭素排出量に関する憂慮について同じことが言われていた可能性があります。当時の人々と異なり、今日、新たなモビリティサービスを構築し使用している人々には、手遅れになる前にこのような懸念に対処する機会があります。

これは、8月18日にBloomsburyによって出版された、「A Brief History of Motion: From the wheel to the car to what comes next」からの抜粋を編集したものです。

 

この記事は、のTom Standageが執筆し、Industry Diveパブリッシャーネットワークを通じてライセンスされたものです。ライセンスに関するお問い合わせはlegal@industrydive.comにお願いいたします。

 


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